マチュピチュに行く場合、クスコを通らないわけにはいきません。 ツアーでもマチュピチュ観光と共にクスコ観光も組んでいるツアーが殆どでしょう。 富士山と同じ標高のクスコは1200年代から1532年までインカ帝国の都でした。
その後スペインに統治され、インカ時代の寺院、宮殿などの重要な建物を破壊し、その上に教会、学校、行政に関する建物を建築したので、インカとスペイン式が融合した建築物が今でも見られます。
かつてアンデス地方のキリスト教布教の中心であったクスコはアンデス山脈に囲まれてエキゾチックな街を形成しており、マチュピチュのついでに観光・・・というには魅力的すぎる街だと思います。
マチュピチュよりも物価が安く、お土産品を取り扱っている市場は値切りし放題ですし、 マッサージも、とても安いので登山で疲れた体を癒すには最適です。
ただ標高が3,400mと高い為、マチュピチュ(標高2,400m)より断然クスコで高山病を発症する人が多いので先にマチュピチュ観光を楽しみ、後でクスコ観光を楽しんだ方が良いかもね?
それでも高山病に罹ってしまった人もおりますが・・・💦 クスコ観光も良い思い出が無いらしく・・・そうならないように予定はゆ~ったり立ててくださいね。
高山病については「旅程とマチュピチュ旅行は侮るな」に書きました~ここをクリックしてね!
アルマス広場を中心に広がる旧市街
ペルーのどの街にも中心地にアルマス広場があります。クスコにも、もちろんあります。 インカ帝国時代、この広場に面して宮殿や神殿がありました。
左に切れているのが旧神殿跡に建てられた大聖堂で右寄りにある教会はイエズス会の教会です。
この時、クスコはストが行われていた為、大聖堂の扉も閉じられておりました~💦
大聖堂のお隣「聖家族教会(サグラダファミリア)」があります。
言語が違い教育を受けたアンデスの人々もほとんどいなかった時代に分かりやすい罪と罰を象徴している像は、赤鬼をいじめている冷たい悪人にしか見えないという無表情な天使( ´艸`)
こちらはイエズス会の「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」こちらは旧宮殿跡に建てられました。 どちらの教会もヨーロッパなどと違い、インカ独特の石積がユニークですね。
石畳の坂道も街に独特な表情を与えています。
この石畳の坂を上った所にあった建物。 窓やドアに使われているオーシャンブルーがクスコの青空に映えて印象的でした。 クスコの街を歩くと至る所で、この色が効果的に使われていました。
スペインなどの南欧や中東など暑い地方独特の中庭がある建物のドアにも、この色が。 コロニアル風な建築が多いクスコは中庭のある建物がとても多かったです。
こちらもオーシャンブルーの窓と警察車両の青が妙にマッチしてSNS映えでしょ⁉
な~んとなく、やはりスペイン風な街並みが多いメキシコに近いカリフォルニアっぽい感じもします。
この様に青が使われるのは魔よけの意味もあるのでしょうか? 中東では青は魔よけの色、鉱石であり浄化作用があると言われているラピスラズリの色です。 ギリシャ、ローマ時代には、この青色は「蛮族の色」の象徴であり喪服に使われていたそうですが、中世以降聖母マリアの衣装が、この色に変わり「青」に対する意味合いが良い方に変わったそうです。
古代のローマでは「青い目の女性」=「ブスの象徴」だったというのですから価値観は変遷するのですね~💦
カリフォルニアから沖縄へ~って感じでシーサー??? これは「トリート(トロ)・デ・プカラ」という夫婦の牛さんの御守りです。
アマルス広場周辺はコロニアル風な建築が多くアンデスの山々を背後にして過去の栄華を想像する事は難しくありませんが、少し離れた現代の一般のクスコの人々の居住地区となると全く違った印象になります。
今にも崩れそうなトタン板で覆った多層づくりの家、家が見られました。
そしてクスコだけではなくペルーは野良犬天国。
ずいぶんと前にペルーではワンちゃんをペットにするという事がブームになり、飼えなくなって捨てられた信じられないほどの野良ワンちゃんが哀しそうな表情で至る所で見かけました😢
クスコから車で30分で行けるサクサイワマンの砦やタンボマチャイ遺跡
クスコから30分も車で走ればインカ時代の遺跡を見学することができます。 いかにもペルーというアンデス民族衣装のオバちゃんとも写真を撮れます( ´艸`) サクサイワマンの砦でほんの少しのチップで記念撮影OK! このショットはペルー旅行で必須ですよね~
この遺跡のほど近く標高3,800mのタンボマチャイからみたクスコ市街。
ツアーなどでは、このクスコ近郊の遺跡ツアーとクスコ市内に残る12角の石などの見学はセットになっている場合が多いです。
スペイン統治前の1300年頃の宮殿の一部であった石積は剃刀の刃も通らないと言われているほどピッタリと組み合わさっていました。
クスコは食べ物も日本人の口に合うものも多く、ゆっくりと観光をしたい街でした。