新Y’sクロニクル

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ビザンチン帝国とギリシャ正教のお勉強その②。キリスト教は一日にしてならずだしギリシャは思ったより広い?

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若きトルコの皇帝によるビザンティン帝国の都コンスタンティノープル陥落を描いたNetflix「オスマン帝国」を見て以来、世界史で必ず習うビザンティンとかギリシャ正教とか考えれば考えるほどわからないという事に気がつき、

ドラマを見て以来、数々の本を読み漁り辿り着いたビザンティンとギリシャ正教に

ついての忘備録その2です。

 

その1では、中世がヨーロッパ誕生の歴史上の区分であり、その時代まではオリエントが先進国であり次にローマ帝国、ヨーロッパはただの未開の地だということと、

キリスト教無くしてヨーロッパ諸国の誕生は無かったのかも?という結論に達したのでありました~

 

その中世はコンスタンティヌスがビザンティウムにローマ帝国の都を遷都し

「コンスタンティノープル」と名付けた頃から始まりました。

 

ビザンティン帝国の簡単な成り立ちの前に、当たり前な、こんな事も

目から鱗だったというお話を。

 

ルネサンス時代に生きた人は、その時がルネサンスとは知らないし、東ローマとか分けられてないし、カトリックは最初からあったわけじゃない!

あったり前なんだけど、古代に生きていた人は、その時が古代だとは知らない。

有名な14世紀から16世紀のルネサンスだって19世紀になって
フランスで「ルネサンス」と呼ぶようになったわけだし、ビザンティン帝国だって

最初からそう呼ばれていたわけではない。

 

「今日からルネサンス始めました~」とか「本年を持ってビザンティン帝国と呼ぶべし」ってわけではないのだ。

 

(注:イタリア語の「 rinascita(再生)」は16世紀からヴァザーリの著書で
用いられているし14世紀のダンテも概念として確立していた。

時代区分芸術の潮流を「ルネサンス」と呼ぶようになったのが19世紀)

 

東ローマ帝国、西ローマ帝国にしろ当時の人は東西でわけてはいない。

ローマ帝国の東西を2人の皇帝によって統治していただけだ。

(5賢帝時代までは1人の皇帝によって統治されていたローマ帝国も

衰退の時期に入り、四頭政治、二頭政治と態勢も変遷しました)

 

何世紀か後の歴史家があれこれ研究し便宜上「東ローマ帝国」と呼ぶように

なっただけだ。

最初から「ビザンティン帝国」でもなければ「東ローマ帝国」でもなく、

「ローマ帝国」であったはずだ。

 

そしてキリスト教も最初にローマカトリックがあったわけでもなく、

ギリシャ正教と呼ばれる宗派もあったわけではない💡

(プロテスタントは新しく分かれた宗派なので、そこんとこはよく理解できます)

 

高校の頃「クリスチャンでもないのにさ~なんでニケーア公会議とか宗教会議を詳しく覚えなきゃいけないの???」とテスト頻出問題に興味ゼロ!

そういえば~『キリスト教東西分裂』とかもあったな~それが知識として

全く残っていなかったというのは世界史は暗記科目だと思っていたからだ💦

神道、仏教の多い日本人があんなに詳しくキリスト教を世界史に登場させるのは、

そこに繋がるヨーロッパへの入り口だったのだな~

もちろんテスト頻出だった「キリスト教の果たした役割は?」を正答出来ていた

としても、

実は理解できていなかったのだな~と気がついた💡

 

ビザンティンだのギリシャ正教だのを理解する時に、もう一つ重要な

目から鱗な事・・・

ギリシャってエーゲ海だけじゃない!地中海だって黒海だって!

 

アルキメデスっていたじゃない?

浮力の人ね🚢

中学か高校か忘れたけど「ギリシャ人」てことは習ったでしょ?

 

単純な私はプラトンやソクラテスのようにアルキメデスも

てっきりアテネあたりで生まれたんだろうと思っていた。

アルキメデスってアリストテレスと名前が似てるということもあるけれど💦

 

そのアルキメデスはシチリア島のシラクサで生まれているのだ(@_@)

それを知った時、驚いたね~

「ギリシャじゃないじゃん!イタリアじゃん!」ってね~

 

ピタゴラスは現在のトルコの小島で生まれイタリア半島の一番下にある
カラブリア州がピタゴラス学派の拠点だし、

幾何学といえばのユークリッドはエジプトのアレクサンドリア生まれで、

その地で数学を教えていた。

 

彼らが活躍した時代、シチリアの一部やカラブリアもエジプトも
ギリシャの街だったのだ。

 

とにかく私のイメージでギリシャといえばアテネという構図しかなけれど、

古代のギリシャは広いよ~(@_@)

 

下記の地図はだいたい紀元前800年から紀元前400年くらいまでの

ギリシャの地図。

白抜きされている現在の国名が表記されている部分は

全てギリシャ圏です。

 

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私の古代ギリシャ(今もか?)といえばオリンポス山から南のアテネとか

スパルタカスくらいの狭い範囲。

トロイの木馬で有名なトロイ戦争が起こったトロイって今のトルコだったんだ(@_@)

コンスタンティノープルも古代は「ビザンティオン」というギリシャ人名由来の

名前だった。(ラテン語ではビザンティウム)

 

ほ~出てきたぞ💡

ビザンティン・・・中世以降、旧ローマ帝国であったヨーロッパ諸国の人達から

侮蔑を込めた意味で「ビザンティン」と呼ばれたそうで、

ギリシャ人の感覚では「ビザンティン」に侮蔑の意味はないそうです(*ノωノ)

 

中世以降は「ギリシャ」といえばコンスタンティノープル(ビザンティウム)

だったんでしょう・・・私が「ギリシャ」といえばアテネを思い浮かべるように。

 


ギリシャという国は無かったポリス(都市国家)があっただけ・・・

「古代ギリシャ」とはいうけど「ギリシャ帝国」とか「ギリシャ王国」とか

聴いたことないもんね。

 

あくまでもアテネとかスパルタとかテーベなんていうポリス。

おそらくポリスの集合としての国家としての意識は無かったと思われ。

(その辺りがイタリアを統一したローマ帝国との違いでしょうか)

 

「ギリシャ王国」というギリシャが国家として認識されるのは

19世紀を待たねばなりません💦

 

じゃあ何をもって「ギリシャ人」と認定するかというと・・・

 

〇ギリシャ語を話すこと!
〇ギリシャの神々を信奉すること!

 

ギリシャ語を話し、ギリシャの神々を信奉していた人たちは、

エーゲ海を離れ黒海、地中海に飛び出しポリスを作りました。

 

ギリシャ人は討論好きです( ´艸`)

討論ばかりしていて、自分たちの支配地を広げようとか、このポリスを拠点に

もっと強固なポリスを作り・・・などとは考えません💦

なおかつ隣近所で争ってばかり・・・内戦状態が続きます。

 

最悪な事に古代の古代ギリシャの中心であったオリンポス以南は

岩地が多く食料を安定して生産できる耕地がほぼありません。

争いが続き、食料が無くなり生産性のない論争ばかりで嫌気がさした人々は

集団で、もっと住みやすい土地を目指して移住しました。

エーゲ海から黒海へ、そして地中海へ。

多数の小島が浮かぶエーゲ海から船で辿り着き、そこからまた他の土地へ。

 

という事で、ギリシャ人が定住した土地は良港に面したところばかりです。

 

 

 下記の地図で赤い部分はギリシャ人の植民地ポリス。

黄色い所は、この時代地中海の西側で唯一の強国カルタゴの支配地です。

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この時代はローマも産声を上げたばかりでカルタゴ以外の強国はなかったのですね~

地中海の東は、すでにペルシャ帝国の支配地で、ギリシャ人は西に向かうしか

なかったのです。

今のフランスはマルセイユ、ニースはイタリア文化が強く残っている土地ですが、

もともとはギリシャ人の土地だったんですね~

 

極東の日本人が意識して押さえたいポイントは、アフリカ=サバンナではなく、

北アフリカは古代では立派な文明国家だということ!

その北アフリカは中東に繋がっているということ!

アフリカの東のエジプトがほぼ中東という位置関係がわかります。

ローマですら3等国ですから、今のヨーロッパ諸国は野蛮人の住んでいるところという

認識?いや認識する必要も無かったでしょう。

 

その後、あの有名なアレキサンダー大王が登場し、ギリシャ人が恐れて

向かわなかった東へ、東へと破竹の勢いで領土を広げ

東はインドまで到達し、ここでヘレニズム文化圏ができるんですね~

 

アレキサンダーはマケドニア出身(地図ではオリンポス山の北にあたります)

でギリシャ人という認識です。(紀元前350年くらいから紀元前30年くらいまで)

そして紀元が「前」から「後」に変わるあたりから、ギリシャの支配地、

カルタゴの支配地すべてローマ帝国領となるのです。

 

ギリシャの時代は紀元前で終了してしまいます😢

しかし、その領土を制覇したローマ帝国によって、その精神は残りました。

ローマ帝国支配後、それぞれの土地はラテン語に変わってもギリシャ人は

住み続けていたのです。

 

ビザンティン文化が花開いたのもローマ人の広い心のおかげ?

ギリシャ文明は紀元前の短い時代だったことがわかります。

しかし、ギリシャ文化を高くかっていたローマ人はギリシャの教養を

積極的に取り入れました。

ローマ帝国支配下になってもラテン語を強要するのではなく、

ローマ人がギリシャ語も習いました。

また積極的に元ギリシャポリスに人材を留学させました。

 

ただ国家の運営・・・はギリシャを反面教師として

強固な帝国を樹立したのです。

 

アレキサンダー大王が次々と造って行った自分の名前を冠した

街は、ローマ帝国に引き継がれても重要な戦力的拠点であった点は

変わりません。

エジプトのアレキサンドリアは、そのままの名前で残りました。

 

時は一挙に新しくなりローマがキリスト教を認めた時代(4世紀頃)

その重要拠点の都市にキリスト教の5大教区がおかれました。

ローマ以外の教区はギリシャ人の都市が多いということと、

イエスが活動したエルサレム周辺の地理的要因から最初の頃はギリシャ人を

介してキリスト教が広がって行ったわけです。

 

高校で世界史の授業で「聖書がギリシャ語で書かれてキリスト教が広まった」

ということが結びついてきます💡

 

聖書を読むとギリシャ人の街が頻繁に登場します。

例えばパウロが獄中から書いたとされる「テサロニケ人への第一の手紙」とか。

それでもギリシャとキリスト教を結びつけることができなかったのは、

やはりギリシャは多神教という概念が長く続いていたからでしょう。

もちろんキリスト教が国教となる以前はゼウスやバッカスを信じ、

アルフォイでご宣託を受けるギリシャ人ではありました。

 

しかし初期のキリスト教伝道で大きな役割を果たしたのはギリシャ人

だったわけです。

 

このあたりを知るとギリシャが「我々こそが本当のキリスト教だ!」と

ギリシャ正教が考えるのも、もっともだと思いました。

英語ではGreek Orthodox church。

このOrthodoxはauthentic(本当の、正当な)の意味ですね。

 

対してローマカトリックはRoman Catholic Churchといい「Catholic」も

普遍的そしてこちらも正当な・・・という意味です。

 

キリスト教の黎明期、同じキリスト教の思想を統一するために

宗教会議がなんども開かれました。

その中で異端と認定された会派もあり、最終的にニケーア公会議で

「アタナシウス派」が正当とされギリシャ正教もローマカトリックも

同じ宗派のキリスト教だったのですね~

 

五本山は、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・エルサレム・アレクサンドリアで総大司教座教会が置かれました。

 

このように生まれたキリスト教もギリシャ正教の信者がのちに「イスラムよりも

憎いのはカトリック」というようになり袂を分かつわけです。

五本山もローマ、エルサレム以外はイスラムの支配になってしまいました。

 

新ローマであったはずのコンスタンティノープルが「ビザンティン」と

呼ばれるようになり、ついには同じキリスト教徒の十字軍によって

略奪までおこる経緯がなんとなく見えてきました。

 

ということで、今回はここまで・・・

次回はビザンティン帝国の簡単な歴史にいくかも???