新Y’sクロニクル

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【2024年夏・古代ローマの中心でちょい住み旅⑪】ボルジアの階段でチェーザレを想い、サン・マルティーノ・アイ・モンティ教会で初期キリスト者を想う。

 

悪徳の貴公子チェーザレ・ボルジアに恋して。

惣領冬美の人気漫画「チェーザレ破壊の創造者」でビジュアル化されたチェーザレは

聡明で実に美しい人物だ。

だいたい講談社モーニング公式サイトも「ルネサンス史上最も美しい英雄」と記してある。

 

そのビジュアルそのままで塩野七生著「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」

を読み、チェーザレが絶命し物語が終わると失意のあまり2,3日頭がボッーとして生活がうわの空になるくらい最近でいう推し喪失状態だったのだ(≧▽≦)

 

↑このようなビジュアルで描かれている。

 

だが、実際に残っている画家の書いた肖像画とは似ても似つかないのだΣ( ̄□ ̄|||)

どちらかというとスペイン出身とは思えぬ平坦なお顔・・・

実際には、これまた教皇史上最悪と評される父のロドリゴ・ボルジアのほうが

若い時は美形だったらしい(教皇時代の肖像画からは想像できませんが)

古の画家の描いた肖像画は全て無かったこととし

惣領バージョンで通すことに決めた😂

 

すっかり頭が「💕」になった世界史では登場した覚えのないチェーザレ様🥰

 

2020年に予定していたローマ訪問時に、ぜひチェーザレに縁のある

場所がモンティにあると知り訪れたいと考えていました。

それが「ボルジアの階段」

 

計画段階では、アパートメントからこんなに近くて毎日目にするようになるとは

全く考えてもいなかった~

 

 

 

マドンナ・ディ・モンティ通りと続くレオニーナ通りをカヴール通りに向かう途中にある坂は(階段になっている)「salita dei Borgia(ボルジアの坂)」と呼ばれています。

すでに、ここからボルジア~💕

 

↓の写真の右の建物は「ボルジア・スイート」というホテルで「ボルジア・カフェ」

を併設しており、いつも賑わっていました。

 

 

↑の階段を登りきるとカヴール通りで、そこを渡れば「ボルジアの階段」正式な名称は「Scalinata dei Borgia o Vicus sceleratus(ボルジアの階段または極悪な場所)」

イタリア語の意味を調べると、この階段にまつわる2つの出来事があると分かります。

 

ボルジア家が極悪って意味ではないのね、ある意味それでも通じそうだけど(≧▽≦)

 

 

 

階段上の建物は「ボルジア宮殿」

チェーザレの父はロドリーゴ・ボルジアであり後の教皇アレクサンデル6世。

ロドリーゴは枢機卿(教皇最高顧問)という聖職者なので妻帯は認められていませんでした。

 

1495年にマントヴァで十字軍会議が行われた際、教皇ピウス2世に帯同したロドリーゴは、その地で18歳のヴァンノッツァ・カッタネイと出会いローマに住まわせたのでした。ロドリーゴとヴァンノッツァの間に生まれたのがチェーザレや妹のルクレツィアです。

いわゆる「庶子(本妻ではなく父が認知した私生児)」ってやつですね。

とにかく、その母子が住んでいた宮殿です。

 

今は前回ご紹介した「サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会」の一部になっています。

 

 

このボルジアの階段部分は古代ローマ時代からありました。

階段のもう一つの名称「Vicus sceleratus」極悪な場所・・・とは

ローマ6代目の王様、セルウィウス・トゥッリウスが紀元前535年に殺された場所でもあるんですね~

 

*セルウィウスが作らせた城壁は今でも残っています。

 

セルウィウスの娘は最悪の人物で、夫に父親(セルウィウス)を殺すよう命じました。

階段から落とし、その上を馬車で走らせた・・・という念の入れようΣ( ̄□ ̄|||)

その馬車の手綱はセルウィウスの娘自らが握っていました😓

その甲斐あって夫のルキウス・タルクィニウス・スペルブスは第7代にして王政ローマ最後の王となりました。

「傲慢王」と呼ばれた娘婿はその傲慢さ故、ローマから追放され王政にピリオドを打つ結果となったのでした~

 

 

古代ローマの上に築かれた中世ローマの街。

何重にも歴史が積もっています。

 

通称ボルジアの塔が見える小道を進むと・・・

 

 

イタリアのみならず欧州で屈指の歴史を持つ「ローマ・サピエンツァ大学」があります。

設立1303年前身は神学校だった西ヨーロッパ最大規模の大学。

チェーザレ・ボルジアも卒業生です。

(チェーザレは神童なのでピサ大学などにも在籍していました)

ノーベル賞学者や政治家を輩出。

ラストタンゴ・イン・パリで有名な巨匠ベルナルド・ベルトリッチや

日本で活躍しているイケメン料理研究家ベリッシモさんも、ここの卒業生Σ( ̄□ ̄|||)

 

 

ここからもトライヤヌスの浴場遺跡を見ることができます。

 

 

途切れては、また現れるトライアヌスの浴場。

どんだけ広大なんだって話・・・

浴場といっても現代の大江戸温泉(もうないか?)+大型図書館+スパ施設などの

複合施設だもんね~

 

 

トライアヌスの浴場ってAD100年くらいの建築物だけど、長細い棒状の石を幾重にも組んでいたりで凝ってるな~と。

 

 

「トライアヌスだらけじゃん!」とか思いながら歩いていると

教会があり、今のところ、どの教会も見学していないので

とりあえず入ってみました。

ガイドブックには載ってない「サン・マルティーノ・アイ・モンティ聖堂」

 

 

ファザードはバロック時代の建築だと思う。

教会というより宮殿のみたいなのが多いよねバロックは。

 

 

中に入ると、やはり、そこはタダモノではない雰囲気満載の教会でした。

 

 

中に入ると、やはりバロック。

しかし列柱は古代ローマ時代のものなんだとか・・・

 


なーんだバロックか、まだひよっこやの~と考えてはいけません!

(バロック時代とは16世紀後半から18世紀にかけての時代です。ローマは

反宗教改革の時代で豪華で優美なバロック時代に改築された建築が多いです)

 

ここを教会ではなく聖堂と呼んでいますが、それはバシリカだったからです。

 

*バシリカは前回も説明したように古代ローマにおいて集会場などの施設として使われました。

キリスト教承認後、祈りの場所としてバシリカが転用される事が多かったようです。

なので古代、新たに専用に作った教会もバシリカのように長方形になっています。

後にバシリカとは一般の教会より上位の教会であると教皇により認められました。

 

4世紀に殉教者に捧げるバシリカとして教皇シルウェステル1世の寄進によりたてられました。

324年には、世界史の教科書で見覚えがあるニカイア公会議の準備のための会議が開かれたというくらいですから、それなりの聖堂なんだと思います(≧▽≦)

 

実は、この4世紀の建物の下に3世紀に使われていた地下が2層でありましたΣ( ̄□ ̄|||)

地下一階部分は無料で見学可能でした。

中に入るまでは、このような地下の遺跡があると知らなかったのでテンションは

上がり、全く撮影しておりません・・・

かろうじて地上の身廊部分だけを撮影した次第で・・・

 

3世紀ですからキリスト教がまだまだ迫害されていた時代です。

そのような事実から、初期キリスト者の祈りの場としていたとするブログが

多いのですが、見つけてしまった・・・

英語のウィキによれば、規模から考えて地下は祈りの場というより商業施設の

保管庫だったという説のほうが有力だそうです。

 

ローマには古代のバジリカを中世以降教会などに転用したり、その上に建築したりが多く、このような地下がある教会が多いので、その中には初期キリスト者が

ひっそりと祈りを捧げた場所も見られるのかもしれません。

 

聖堂の裏側を見ると古代バシリカ建築という事がよくわかります。

半円形の部分は祭壇があるアプスと呼びますが、バシリカ様式は

長方形の身廊(一番広い椅子などが並べられている部分)にアプスを設けた

シンプルな設計です。

 

 

その後ロマネスク、ゴシック時代になると上から見ると十字架型に設計されました。

 

トライアヌス公園と呼ばれる一帯を歩き、お腹が空いたので

アパートメント方面に戻りランチ~

 

 

時間もかなりお昼をすぎ3時のおやつの時間に近かったので、

一品づつではなく、前菜盛り合わせで乾杯~🍺

今日も暑くて🍺が旨い💕

 

 

ボリュームが凄い盛り合わせ(*_*)

この時も、いわずとも取り分けるお皿を持ってきてくれました~

 


最後に「ボルジア家ってなに?チェーザレってなにした人?」の為の

解説というか、専門家でもない私がざーっと理解している事を記しておきます(;'∀')

スペイン出身のボルジア家、清貧な先祖のおかげで成り上がりにもほどがある一族!

田舎の名士からいきなり、ほんとうにいきなりの名家になってからの、教皇2人もだしちゃったボルジア家。

 

チェーザレの父であるロドリーゴは史上最悪の教皇と呼ばれ、チェーザレは極悪、変態といったありがたくない評判を受けたわけですが、一方、あの「君主論」を書いたマキャベリからは理想の君主とチェーザレは呼ばれ、君主論のモデルになりました。

 

ボルジア家が隆盛を迎えチェーザレが活躍した時代はルネサンスの時代です。

イタリアは小国が乱立し、いち早く絶対王政を確立し王のもとに国家統一し自前の軍隊を持ったフランス、英国、スペインが力をつけた時代です。

ここから上記3国は重商主義へと向かいました。(植民地獲得の大航海時代)

ボルジア家が一躍名門になる要因の一つが、あのアビニョン捕囚でした。

14世紀に約70年続いた捕囚の後に迎えたのが教会大分裂時代です。

フランスからローマに教皇が帰還してからもローマとアビニョンに教皇は併存していました。

 

ここで漁夫の利を得たのがボルジア家のアロンソ(ロドリーゴ・ボルジアの叔父)。

アビニョン側の法律顧問を務め教皇のクレメンス8世に退位を促したのでした。

その功績でローマ教皇からヴァレンシア司教に任命されてからの立身出世!

 

当時のスペイン(アラゴン国)の王に請われナポリで暮らすこととなりました。

その後はローマに移り大出世しています。

 

アロンソは聖職者でしたので子供はいませんでした。

ロドリーゴはアロンソの姉の子供で姉夫婦が死去し、残された子供ロドリーゴと

その兄の後見人になった事で、大幸運期がロドリーゴにやってきたのです✨

 

アロンソがなんとローマ教皇になったのです!

その後ろ盾でロドリーゴも若くして教会の要職を歴任するのです。

 

その頃のローマは教皇不在の期間が長く、そしてやってきた田舎の乱暴者スペイン人で荒らされ荒廃した街になりさがっていました。

なのでボルジア家もスペイン出身という事で、評判は悪かったのです。

 

チェーザレはローマ生まれですが、やはり厳しい目で見られたでしょう。

 

父親のロドリーゴが教皇になりチェーザレもこれまた若くして枢機卿になるなどしましたが、父の死を経ていわゆる軍人として生きるようになります。

聖職者の地位を捨てて軍人になるのは前代未聞の事でした。

小国乱立のイタリア、力をつけたフランスや神聖ローマ帝国が虎視眈々とイタリアを狙う戦乱期、チェーザレはイタリア統一の為に戦い、1507年3月に32歳の若さでスペインで戦死。

 

レオナルド・ダ・ビンチはチェーザレのもとで軍事監督として働きました。

 

教皇であった父の最悪な評判はさておき、チェーザレは教会と対立することが多かったので、その評判は必要以上に悪く伝わっているのかもしれません。

教皇が権威を振るっていた時代からの脱皮が試されたルネサンスの時代の

寵児でもあり犠牲者でもありました。

彼を教皇が受け入れていたら、イタリアの統一は早まったと思います。

 

 



 

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