「エミリー、パリに行く」のseason4part2でエミリーがローマ支社長になった。
初めてローマを訪れたエミリーが「パリは整然としていて綺麗な街だけどローマは歴史が現代に重なって美しい」っぽいことを言っていた。
エミリーの親友ミンディーと路地を歩きながらローマの美しさを語る場面で
「美しい廃墟」・・・その言葉で完成したミンディーの新曲が亀の噴水前で披露され
インスタでバズっていました。
今回のキャプションは、そこから頂きました~(≧▽≦)
(トラヤヌスの市場遺跡)
ローマという街が唯一無二な街というのはエミリーがいうように、街を歩けば
フツーに古代がそこにある・・・に尽きます。
が・・・日本人の私が感じるのは陽キャラなイメージのイタリアは
日本の「侘び寂び」と通じるという事です。
華麗でゴージャスな街、パリやウイーンが安土桃山のイメージなら
ローマは鎌倉・室町なイメージ。
または商人文化の大阪と武士文化の江戸というような・・・
江戸っ子好み(粋)は表地は渋く裏地は華やかというでしょ?
ローマと他の欧州の大都市との違いの考察は後にして、美しき廃墟・・・・
夜の皇帝たちのフォーラムあたりを歩きましょう~✌
ヴェネチア広場からアパートメントに戻る途中、必ず目にした光景。
ヴェネチア広場はヴィットーリオ・エマヌエレ2世記念堂の前の広場で
バスを利用するには便の良い広場です。
絶賛工事中の記念堂からトラヤヌスのフォーラム方面に歩くと周りは遺跡だらけ。
ギリシャ式列柱が並んでいるので神殿だったのでしょかね~?
夜はどの遺跡もライトアップされており、幻想的💕
ナイト・ツアーと呼ばれるグループとも遭遇します。
漆黒の空と、そこに浮かび上がるドームが特徴的なサンタ・マリア・ディ・ロレート教会。
その左にはトラヤヌスの記念塔も見えます。
この教会は16世紀にローマのパン職人組合によって建てられました。
その関係か、ここにはローマピザの原型ホワイトピザ・・・ピザ生地だけのピザが有名なパン屋さんもあります。
この教会が建てられる前は礼拝場で巡礼地として有名なマルケ州・ロレートの
聖母のイコンがあったのでロレート教会と名付けられました。
マルケ州って存在感薄いけど、ローマからイタリア半島を横断してアドリア海出るあたりの州。
で、古代ばかりと侮ってると遺跡ではなく現役の建物がΣ( ̄□ ̄|||)
ほぼトライアヌスの市場が占めていますが(いわずと知れたAD110年完成の人類初のショッピングモール✌)
右に見えるのはアウグストゥスのフォーラムにあたります。
拡大したものがこれ↓
最上階の建物は現役マルタ騎士団の施設。
列柱の間の赤っぽいのがマルタ騎士団の旗です。
アウグストゥスのフォーラムの中のマルス・ウルトール神殿(フォーラムの中でもっとも壮麗な神殿といわれた)の上に世紀を経て積み重なった場所に13世紀、あの聖ヨハネ騎士団の中の医療チーム施設が・・・(のちにマルタ騎士団と呼ばれる)
第一次十字軍の頃、エルサレムに本部があり、イスラム勢力が強くなりかくかくしかじかで(笑)ギリシャ、トルコをへてマルタ島にたどり着き、そこでマルタ騎士団と呼ばれるようになり、レバントの戦いで強さを見せたもののナポレオン・ボナパルトに侵略されてしまいました~(ここまで何世紀にわたる物語なんだ???)
1832年本拠地をローマに移し今に至るのです。
知らなかったんだけどマルタ騎士団って一つの国のような扱いらしい。
国家主権を維持しているんだってΣ( ̄□ ̄|||)今でも112か国と外交関係をもち
国際赤十字や国際オリンピック委員会などの非政府組織と同列らしい。
残念ながら日本とは国交がないんだとか。
施設内の見学もあり、前にご紹介したグリッロ宮殿から入るんだって。
そうか~地図で確認すると確かにここと背中合わせの位置関係だ💡
スペイン広場の近くにマルタ宮殿があり実質そこで実務を行っているんだと思うんだけど・・・
そこには巨大猫がいたわ(≧▽≦)
フェルナンド・ボテロのオープン展覧会が開催されていました。
その作品のひとつ。
コロンビアのこれを描いたアーティストね↓
フォーラム近辺を散策し、古代ローマに迷い込んだような空間を見つけ
歩いたりしました。
Googleマップを確認しても、どこのなんという遺跡あたりを歩いているのか
分からず・・・
こんな遺跡が見えるクネクネ道の途中にフツーにホテルがあったりする・・・
気がつけばチルコマッシモ辺りにでてしまった・・・
(古代の馬車による競技場)
バス停があったのでモンティ近くまで戻りました。
わけの分からない場所に出ても、文明の利器Googleマップがあれば、
バスの行先、停留場、何分でバスが来るかなどが分かるのでありがたい。
このように全く旅行ガイドやサイトに登場しない場所こそローマの醍醐味なんだと分かった今回の旅。
今までは「ローマ凄い!フツーに遺跡が点在してるよ~」程度でしたが、ここまで
遺跡が現代の中に特別ではない顔をして存在しているという実感はありませんでした。
ヨーロッパは石の文化だったは間違った認識だった。
ローマの特異性(他のイタリア各地にもいえる事だけど)は石の文化だという事。
一般的にヨーロッパは石の文化だったと日本ではいわれているよね?
アルプス山脈の南と北では全く異なっている。
アルプス山脈の北、古代はゲルマンと呼ばれた民族が住んでいた土地は
森の文化。
南は森の無い石の文化。
この森と石の文化の違いがゲルマンの各都市とイタリアの各都市の違いを生んでいるんだと思う。
ゲルマニア、ノルマンディー、ゴート、フランクそれぞれのゲルマン人の土地で
今の都市になっているような街は、ほぼローマ帝国が作った街でした。
ローマと同じようにフォーラムやインフラが作られ、ローマに続く道が整備されましたが、
5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、古代の都市は廃墟となり整備された街道は落葉樹の葉で覆われ、それが七百年近く続きました。
中世といわれる時代です。
太陽王ルイ14世の時に隆盛を極めたフランスの都市も18世紀近くまで、
殆どの建築は木造だったのです。
他のゲルマン諸国も同じでした。
上下水道もローマ時代は整備されていましたが、廃れ衛生状態はとても悪い状態でしたが、17世紀にロンドン大火が起こり、その教訓でパリやウイーンなど現代の壮麗な街は耐火性のある街に変容しました。
ローマ時代に整備された街路、都市の中心部から放射線状に延びる大通りと、それを
交差する道からなっており、それを生かし石を使い耐火性があり、高さ制限や隣家との
制限も設けた均整の取れた街となりました。
また行き過ぎたバロックの反省から新古典建築(装飾過多ではないギリシャ・ローマ様式)が流行し街づくりに取り入れられました。
ローマはというと木材が貴重だったため、古代から石を使った建築手法が取り入れられました。
7つの丘のあるローマ市街の低地にはインスラと呼ばれる高層集合住宅が一般的でした。
共和制ローマ(紀元前後)の時代には100万都市だったローマは密集した街だったのです。
AD64年、あの暴君ネロの時代に起きたローマ大火で60%の住宅が焼失してしまい、その後ネロによる火災に強い都市づくりが行われました。
ローマ大火以前のインスラは高いもので9階建て。
1階は商業施設となっており4階以上は木造だったのです。
下の階も天井や床は木造。
上階は貧しい階級の住まいでした。
大火以降、高さ制限が設けられ4,5階だてになり木造も少なくなったそうです。
近世から近代に大規模な都市計画が行われていないのは、上記のようにどこを歩いてもその下には古代遺跡といった特殊事情があるためですが、それゆえ唯一無二の街になっているともいえます。
ヨーロッパが石の文化といわれるのは教会はゲルマン諸国でも石造りだったからでしょう。
ローマはフォーラムを街の中心に置きました。
ゲルマン諸国の街が大聖堂を中心に発展したのとは違う街の形です。
ゲルマンの都市は大聖堂を中心とした街です。
これもローマ帝国亡き後の暗黒のヨーロッパと関係しています。
高度な技術が途絶え、ゲルマン人は見よう見まねでローマ式の石造り教会を作り(ロマネスク)その後、ゲルマン魂が昇華しゴシックという森を彷彿とさせる上へ上へと延び
枝葉を模した鋭い尖塔を持ち異教の妖精や怪物を装飾とする建築様式を生み出しました。
ギリシア哲学リスペクトが中心にあるローマの理性と相反するもので、
同じキリスト教国で違う理念のもとローマとゲルマン都市では異なる文化が街の景観に反映されているのでしょう。
教会建築から発展した中世以降の建築様式の変遷(美術や音楽含め)もゲルマンとラテンでは違う、それぞれのアイディンティティのもと発展しますが、
ゲルマン人の・・・という意味のゴッシック、これこそがキリスト教世界に
身を置くことになった彼らの究極のアイディンティティだな~と感じ、
その最たるものがガウディのサグラダファミリアだという思いに至った今回の旅。。。
ゴシックなどはローマ人から見るとtoo muchの極み、そのローマ人に
サグラダファミリアを見せたいものだと思います(≧▽≦)