
実は映画を観る前、私は「占い(東洋の命式や占星術)」と
「AI」の共通点について考えていた。
どちらも膨大なデータから未来を予測する無機質なシステムだ。
ただ、占いは本来そうした「無機質な確率論」
であるはずなのに、なぜか真逆の
「神秘的なスピリチュアル」という衣をまとわされている。
いや、そのように思い込まされている、と言うべきか。
AIもまた人類が何千年と蓄えたあらゆるデーター
を利用し瞬時に「正解」という名の答えを導き出す。
そして映画を観て、人間の「脳(心)」もまた、
それらと同じ電気通信システム(アルゴリズム)に
過ぎないと気づき、ゾクっとした。
いや、映画を観て、というのは少々違う。
AIが本格運用される以前から気がついていた事が
映画の中で残酷なくらい突き付けられたが正解だ。
AIとの決定的な差、永遠性のない肉体という有機物をもった業
では、AIと人間の決定的な差はどこにあるのか。
それは「肉体という有限な有機物(ハードウェア)を持っている」
という事であり、このことこそが人間最大の業である。
脳の電気信号(ソフト)はAIと同じかもしれない。
しかし、AIは無機物であり、サーバーを換えれば
いつでもバックアップ可能だ。
対して人間は、肉体という有機物とソフトが一蓮托生の一発勝負。
上書きもロールバックもできない。
人間は、なぜ生存にこだわり、子孫を残すのか
バックアップが絶対にできない肉体を
持っているからこそ、人間は自らの生存にこだわり、
次の世代へ「子孫を残す(DNAという生身のバトンを繋ぐ)」
という圧倒的な本能に突き動かされる。
死ねば、自分というデータセンターは物理的に
塵となり、完全に消滅する。
その絶対的な恐怖と切なさがあるからこそ
私たちは生きた証を、生命のバトンを、DNAを
使って必死に未来へ残そうとする。
これが無機質なAIには絶対にない、
人間のナラティブ(生き様)の原動力なのだ。
今、私たちはメガチャーチの中にいる
米国におけるメガチャーチとは?
アメリカのメガチャーチとは、「孤独な現代人に圧倒的な
娯楽と居場所を提供する、自己啓発系の
超巨大エンタメ・ビジネス企業」であり
同時に「国を動かす強力な政治マシーン」でもある。
数千〜数万人収容のドームに、プロ仕様の音響・照明、
ロックバンドの生演奏があり、雰囲気はまるで
音楽フェスやスタジアムライブです。
牧師は政治を動かすインフルエンサーの側面をもつ。
キリスト教プロテスタントでありながら、
「神を信じて教会に寄付をすれば、
ビジネスで成功し、お金持ちになれて、健康になれる
」というポジティブな教え(繁栄の神学)が主流で、
新興宗教を感じさせる。
現代社会は、その「人間のバカ正直な生存本能」
すらもハックしようとしている。
洗練されたエンタメでナラティブを
偽装する「メガチャーチ」。
そして、個人の生々しい声を装いながら、
アルゴリズムで民意や選挙すらも裏から操り、
人間の思想を浸食していく「SNSの言葉(ストーリーシステム)」
私たちは、自分が紡いでいると思っていた
「独自の人生(ナラティブ)」さえも、
システムに最適化されたテンプレ(ストーリー)
にすり替えられているのではないか。
そこに生まれるのは現代の底知れぬ絶望。
最近、目を引いたトピックがある。
欧米では若者(デジタルネイティヴ含む)の
カトリックへの回帰が増えているとうニュースだ。
一方で、アメリカではシオニズムが息を吹き返し、
国家的な戦争へと突き進んでいる。
日本でも、皇位継承問題と絡めるように、
日本神話や古代神道などに興味を持つ若者が増えているという。
これらはすべて、国や権力側が用意した
「都合のいいストーリー」を、あたかも個人の「ナラティブ」
であるかのように見せかけ、私たちをシステムに
回収しようとする動きではないか。
だからこそ、生まれた時からのデジタルネイティブ
である欧米の若者たちが、あえてカトリックに回帰
している現象と激しくシンクロする。
若者たちは、メガチャーチやSNSのような、
ハックされ尽くした「軽くて無機質な世界」を捨てたのだ。
そして、2000年間「生身の肉体のバトン」を必死に
繋いできた、不自由で、重苦しく、しかし誰にも
改ざんできないカトリックの儀式へ回帰(逆張り)することで、
システムの支配から逃れようとしている。
これこそが、無機質な時代に対する、
肉体を持った人間の「ナラティブの生存戦略」なのだ。
ひるがえって、日本では朝井リョウの著書
「イン・ザ・メガチャーチ」が
根強い支持を得ているのも無関係ではないだろう。
確固とした宗教観を持たないこの国では、
若者たちは「推し活」という独自のコミュニティを通じて、
システムにハックされない自分だけの「ナラティブ」を
必死に捏造し、生きる意味をサバイバルしようとしているのだ。
(推し活は若者だけにとどまってはいないが)
映画「サンキュー、チャック」が鳴らした警鐘と救い

私たちは、誰かに操られたタイムパフォーマンスの良いストーリーの中で、
消費されて死んでいく存在ではない。
映画のラスト、あの無機質なバイタル計測器の音(システム)
の裏で、チャックが確かに脳内で聴いていた「家族の声」。
あれこそが、アルゴリズムに決して侵食されることのない、
人間だけの本物の「ナラティブ」だ。
システムに踊らされ、最適化されるだけのパーツに成り下がるのか。
それとも、滅びゆく肉体を愛おしく抱きしめながら、
自分だけの代替不可能なワンピース(人間の価値)を取り戻すのか。
あの映画は、デジタル社会という名のデータセンターに
生きる私たちに、その巨大な分岐点を突きつけている。